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リヴァプール (HMS Liverpool, C11) は、イギリス海軍のタウン級軽巡洋艦。艦名はイングランド北西部の都市リヴァプールにちなむ。 == 艦歴 == リヴァプールはゴーヴァンのフェアフィールド・シップビルディング・アンド・エンジニアリング・カンパニーで1936年2月17日に起工、1937年3月24日に進水し、1938年11月2日に就役した。 第二次世界大戦勃発後の1940年1月21日に、中国艦隊に所属していたリヴァプールはホノルルから横浜に向けて航行中の日本客船浅間丸を千葉県房総半島沖の公海上で臨検した。リヴァプールは浅間丸乗客のドイツ人21名の身柄を拘束し、当時関係が悪化していた日本とイギリスの間において大きな国際問題に発展した(「浅間丸事件」)。 その後リヴァプールは地中海の第7巡洋艦戦隊に配属された。1940年6月12日、リヴァプールと姉妹艦のグロスター (''HMS Gloucester, C62'') は4隻の駆逐艦を伴ってトブルクを砲撃した。この際、グロスターはイタリア小型艦を4隻と交戦した。イタリア側は翌日1隻の損失を認めた。 6月28日、MA3作戦で出撃中であったリヴァプール、グロスター、ネプチューン (''HMS Neptune, 20'') 、オライオン (''HMS Orion, 85'') およびシドニー (''HMAS Sydney'') から成る第7巡洋艦戦隊は、マタパン岬南西で3隻のイタリア駆逐艦と交戦した。このエスペロ船団の戦いで、第7巡洋艦戦隊はイタリア駆逐艦エスペロ (''Espero'') を撃沈した。 7月9日、カラブリア沖海戦に参加。続いてハッツ作戦、MB5作戦に参加した。MB5作戦ではグロスターと共にマルタへ兵員を輸送した〔''Chronology of the War at Sea 1939-1945'', pp.42-43〕。 次いでマルタへ補給船団を送るMB6作戦に参加。10月13日にはレロス島攻撃に向かう空母イラストリアスに同行した〔''Eagle's War'', p.57〕。10月14日、リヴァプールはイタリア軍機の雷撃を受け魚雷1本が命中し大損害を受けた〔''Cruisers of World War Two'', p.109〕。リヴァプールは軽巡洋艦オライオンに曳航されてアレクサンドリアに帰還し〔HMS Liverpool, British light cruiser, WW2 〕、そのでの応急修理は1941年4月まで行われた〔。それからカリフォルニア州ヴァレーオのメア・アイランド海軍造船所で本格修理が行われた〔。リヴァプールは1942年春に本国に帰還し、4月から5月にかけて北極船団の護衛を行った。 リヴァプールは1942年6月にハープーン作戦に参加、マルタ島への船団護衛を行った。リヴァプールは軽巡洋艦ケニヤおよび第17駆逐群の駆逐艦とともにマルタへ向かう船団を護衛して6月4日にイギリス本国を離れた〔''In Passage Perilous''〕。船団は6月11、12日夜にジブラルタル海峡を通過し、6月14日にはイタリア軍機の攻撃を受けた〔。その攻撃でリヴァプールは被雷し、右舷側の機関室Bに24フィート×19フィートの穴が開き、死者15人、負傷者22人を出した〔。損傷したリヴァプールは駆逐艦アンテロープに曳航されて護衛の駆逐艦ウェストコットとともにジブラルタルへ向かった〔。その途中にもイタリア軍機による爆撃や雷撃を受けたが命中はせず、6月16日にはジブラルタルから来た曳船がアンテロープと交代し、17日夕刻にジブラルタルに到着した〔。そこで応急修理を受け、その後ロサイスで本格修理を受けたものの、完了まで3年を費やした。修理の完了後リヴァプールは地中海に展開した。 1951年には、マウントバッテン卿がリヴァプールに乗艦しスプリトを訪問、続いてユーゴスラビアでチトー元帥と会談した。 1950年代にイギリス海軍は艦艇数を削減し、リヴァプールは1952年にポーツマスで予備役となった。その後1958年に解体された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リヴァプール (軽巡洋艦・2代)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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